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MARIKO HAMADA Live vol.2 2020.2.4発売!!! Vol02jacket_low.jpg


ああ楽しかった。でも、へとへと。明日は会社に行かねばなりませんし、今日のところはごめんなさいけど、これにてドロンしますぅ。もわもわもわもわもわ・・・・←煙

昨日は平日なのにもかかわらず、たくさんのかたがたにライブにおいでいただきました。ほんとうにありがとうございます。サイン会でも長いこと並んでいただきましてどもども。大友さんはじめバンドのみなさまも、お世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします。今日はひとつお仕事がありましたので、昨夜は打ち上げも余力を残して去り(といっても、ホテルに帰ったのは2時だけどね。)まだ東京におります。今、市川氏の奥様のお仕事場で、パソコンをかりてこの書き込みをしているのです。また松江に帰ってからいろんなことゆっくり書きたいと思っていますが、今日のところはお礼まで。じゃあね。ばっはは〜い。

おはようございます。今日の松江は昨日の大雨から一転、とてもきれいに晴れました。東京のお天気はどうでしょう?高橋尚子さんのマラソン見たいなぁ。さて、『けんやのこと』たくさんの方々に読んでもらえてうれしいです。反響が予想以上でしたので、びっくりしています。それから、けんやくんを知るみなさんからの書き込みにより、わたしの個人的な感傷文が立体的になりました。ありがとうございます。なんか、『壬生義士伝』みたいだよね、ばんばんくん。美談を書くつもりでもお涙をちょうだいするつもりでもありませんでしたが、たくさんのうれしい感想をいただいて、今朝はよい朝です。歌を歌ってきてよかったな、なんて、クサイこと、ちょっと考えてしまいましたよ、おまいさん。それでは行ってきます。シアターコクーンでお会いできるみなさん、楽しみにしています。んじゃ。

その5
春になる少し前、音楽仲間の修次が「おい、おまえのCDつくるぞ」と言った。そうして、それから数ヶ月後にはレコーディングを始め、その年の11月に『Mariko』ができた。ずうっとけんやのことなんか、忘れていた。でも、できあがったまっくろのCDを見た時、けんやが見たらなんて言うかなってちょっと思った。

「ハマダマリコの『のこされし者のうた』最高だよなー」と言っていたけんやにCDを聞いてもらいたかったな。どこか遠い町でわたしのうたを耳にして、少しだけでも、わたしのことを思い出してくれないかな。ビーハイブからフィラメンツへ向かう和多見町の細い道を「俺たちってsoulmateだよなーー」って言いながら千鳥足で歩いて行ったときのこと思い出してくれないかな。『女のみち』を大声で歌いながら歩いたこと思い出してくれないかな。泣いてるわたしをなぐさめてやるって言ってギターを弾いて歌い出したのはいいけど、歌もギターも下手すぎて、わたしが涙を出したまま笑い出してしまった時のこととか、あー、そんな陳腐でジャンクな想い出、センチメンタルすぎる想い出、わたしは忘れないよ。これからもずっと忘れないために、こうして書いているんだからね、けんや。

何年かたってビーハイブのマスターがこんなことを言った。「この前来たお客さんの友達(だったか忘れたけど)が、タイに旅行に行って財布をすられて困っていた時、泊まっているホテルのフロントの日本人がものすごく親切にしてくれて、助かったって。その財布をなくした男の人が松江から来たって言うと、そのフロントの男も松江の人だって言ったんだって。で、名前がケンヤって言うんだってさ」けんやだ!けんやがいた。そう、けんやは優しい男だったもの。それに、けんやはタイに何度も行っていたし。なんかかっちょよすぎる話だけど、うそかもしれないけど、でもなぜかとてもけんやらしいって思った。わたしはワインをひとくち飲みながら、タイのホテルのフロントで働いているけんやの姿を想像した。「マスター、その話ちょっとできすぎ君だね」って言ってわたしは笑った。

おわり。 (2003.3)

その後
わたしが最後にけんやくんに会ったのは、1997年の夏だったと記憶しています。それから約5年半たった2003年の3月に、この『けんやのこと』その1〜その5を書きました。どうして急にそんな気持ちになったのか、よく覚えてはいないのですが、どこかで見てくれるかもしれないけんやくんへの手紙のつもりだったかもしれません。当時、URIKOさんのHPの『まりこの部屋』というコラムのコーナーに掲載していただいていたので、ご存知の方もあろうかと思います。このたび、久しぶりに読んでみたら、とてもセンチメンタルな書きぶりで、こっぱずかしい気もしましたが、再び公開することにしたのは、8年もの間ずっと音信不通だったけんやくんから、先日このブログにコメントをもらったからです。

「その時、わたしがどんなにびっくりしたかわかりますか?タイの奥地で日本兵が見つかったっていうくらいの衝撃だよ」

話したいことはたくさんあったのに、結局はそんなくだらないことを短く書いて、早速連絡をとったら、すぐに翌日返事がきました。タイのバンコクに暮らしているという彼からのメールには、「あなたが、全然変わってないことのうれしさ、生きざまの同じこと、それが何よりうれしく、」とあり、「そして、私は相変わらずの一人身で、飲んだくれで、本読みで、その他まったく変わらずのけんやであることをあなたに知らせたくて。」と続き、「変わらぬ愛と友情をこめて。満月の夜に飛んできた日本兵より」と終わっていました。

メールを読みながら、涙が止まりませんでした。ほんとうに、相変わらず、きざでおかしな人。これが昔つき合っていた彼、だったりしたらどんなにロマンチックだろうと思われますか。ふふふ。いいえ、けんやくんは、わたしにとっては懐かしい戦友のような人なので、むしろ、よけいに感慨が深いような気がします。

そんなわけで、けんやくんに、もう一度あの時わたしが書いた『けんやのこと』という手紙を読んで欲しくて、そしてこの不思議な再会のうれしさをみなさんにもお知らせしたくて、長い拙文、恥をしのんで(なんつって。謙遜だよぅ〜、へへへ。)載せてみました。最後までお付き合い下さってありがとうございます。

最後に、けんやくんへ
わたしはあの頃より、少しだけおばさんになりました。それでもまたこりずに、(へぼい)恋をしていますよ。どうぞお元気で。またメールしますね。

愛と友情をこめて
ハマダマリコ

追伸 インターネットってやっぱりすごいね。

もういちど、おわり。

その3
けんやは、中学生のときから高校を卒業するまで、施設にいた。

両親が離婚して、おとうさんが、けんやたちきょうだいをひきとることになったからだ。おとうさんひとりで小さな子3人の面倒をみるのは大変だったんだそうだ。子供のころは家族そろって福岡に暮らしていたらしい。突然島根にやってくることになって、「こんな田舎はいやだ」と思ったって言っていた。わたしは「たしかぁ〜に」って、「か」の音を伸ばして答えて笑った。泣かないために。

けんやの話からするとお母さんは、恋多きひとみたいだった。けんやたちを捨てちゃったのかなんなのか、けんやの説明じゃわからなかったけど、「愛しくて憎くて愛しくて愛しくて」たまらない感じだった。「あいつもだめだめ女なんだよな」って、つぶやいていた。

お母さんの話をしてド暗モードに入っているけんやを見て、あわてたわたしは「あんたってさーー結局愛情にうえてんのねーー」って、おちゃらけてみた。だめなんだよ!こんなの。「みなしごハッチ」とか、「瞼の母」とか、そういうの、弱いんだよ。なんか、辛い少年時代だったのかなぁとか想像してしまって、かわいそうになって、けんやのことを好きになってしまいそうなくらいだった。

横でうるうるあわてふためいてるわたしを見て、けんやはようやくにやりとした。「この話、女に受けるんだよな」とか言った。「ばかやろう!」とわたしはけんやの頭をどついた。少しほっとした。そのオチをつけることで自分が泣かないようにしたのかな、けんやってば。

けんやには放浪癖があった。旅行とか好きみたいで、いろんなところへ行った話をおもしろおかしくしてくれた。けんやはよくわたしを笑わせてくれた。ジョークが得意だったというよりも、自分の体験をただ話しているだけなのに、それはとてもおかしかった。雪の日に、タクシーから下りようと一歩踏み出したとたんに、そこが道路の側溝だった話とか、「なんであんたっていっつもそんな目にばっかり合うんだろねーーぎゃははははは」ってフィラメンツの足の長いスツールから落ちそうになるほどふたりで笑った。

「いつかビッグになったら」っていう話題もわたしたちの間では定番だった。「俺が小説家としてビッグになったらハマダマリコのバイオグラフィー書いてやるよ」と言った。「すげーなーそれ」って盛り上がって巻末には年表もつけることにした。「『このころから奇行がめだつようになる』っていう文章は天才にはかかせないからな」と念を押しておいた。くだらなかったけど楽しかった。

8月のある夜、めずらしくけんやから家に電話がかかってきた。「今から出てこれないか」と誘われたけど、そのとき他の友達関係のことで鬱が入っていたわたしは、とてもそんな気分じゃなかった。「今日はやめとくわ」って言ったら「そうか。じゃまたな」って言った。わたしは「ばいばい」って言った。

その次の日、けんやはこの町からいなくなった。

その4
だれにもなんにも言わないで、けんやはいなくなった。いや、ちがうかもしれない。けんやは顔が広かったし、わたしみたいな飲み友達は男女問わずたくさんいたから、そのうちの「だれか」に「なにか」を言ってはいたのかもしれない。ただ、その「だれか」が「わたし」じゃなかっただけで。

いつも飲み屋から先に帰ってしまうけんやの後ろ姿を思い出して、やりきれなかった。わたしの話を聞いてはげましたり、冗談を言って元気づけてくれたりしたけんやのことをわたしはほんとはあんまり知らなかった。生い立ちやおもしろおかしい体験は知っていても、あの瞬間に、けんやのこころの中にあった感情、辛さや寂しさや孤独や、あるいは、喜びや希望さえもなんにも知ろうとしていなかった。

けんやがいなくなってからわたしは、いっしょに酒を飲んでいたときのけんやのひとつひとつのセリフや、表情を思い出して、なにかサインがあったんじゃないかって探ろうとした。でも、そのたび、けんやのあの寂しそうなしまりのない笑顔がうかんできてちゃんと考えられなくなった。

けんやは店の経営者の人とトラブルがあったらしいとか、店のお金に手をつけていたらしい、とか、ほんとだかうそだかわからないうわさが町を一周してしまうと、飲み屋でも、もうだれもけんやの話はしなくなった。まるでけんやなんて最初からこの町にいなかったみたいに。わたしはもっとけんやのことを話したかった。けんやが帰ってくるまでずぅっとずぅっと話していたかった。でも、みんなは一様に口が重かった。「やっぱりあいつはばかだよな」って誰かが言った。みんなけんやが好きだった。

大失恋をして以来、そのトラウマのせいなのか、ただ単に体調が悪くなったせいなのか知らないが、わたしはずっと、半径が家から車で20分くらいの距離のところまでしか出かけることができなくなっていた。遠出や知らないところに行くことはこわくて、家から出られなかった。買い物をしていても、今ここで気分が悪くなって倒れてしまったらどうしよう、とか思うと冷や汗が出てきて、結局何も買わずに帰ってしまうことなどしょっちゅうだった。けんやといるときは少しだけ平気だったんだけど。

その年の冬までに、わたしは古本屋をやめて職業訓練校に通って、そして、年があけてからは生れて初めての会社づとめをはじめた。なんか、「カタギ」になった気がしていた。飲み歩くこともやめた。ピアノ弾きの仕事もやめた。それまでの空虚な生活全部のつぐないみたいに、「ザ・ピアス新聞」を娘と書き始めた。遠出はまだできなかった。

つづく。

その1
今から何年か前のわたしはちょっとひどかった。それは、今年5年目に入っている5年日記のどこにも書かれていないから、少なくとも5年より前なんだろう。そのひどい状態はそんなに長くはつづかなかったけれど、そのときの辛さは今でも忘れない。

どうひどかったって、とにかく心がすさんでいたのだ。何をしても空しくて悲しくて孤独で、毎日息を吐いて吸って吐いて吸ってただ生きているという感じだった。朝、古本屋の仕事に行って、夜クラブでピアノ弾きをして、その帰りに行き付けの何件かの店でけんやと飲んで朝方に帰って、というような生活だった。半年くらいだったけど、ずっとそんなの続けてたらどうなっていただろう。

けんやはそのころのわたしととても仲がよかった。彼氏だったわけではなく、ただいつもいっしょに酒を飲んでつるむ友達だった。

「おまえだいじょうぶか?」会うとかならず、けんやはそうたずねた。いつも同じだった。「だいじょうぶにきまってるだろ」というのが、わたしの言葉だった。ぜんぜんだいじょうぶじゃなかった、あの時わたしは。

けんやは優しい男だった。酒屋さんに勤めていて、わたしはクラブでの仕事の前にいつもけんやの酒屋に寄って、けんやのいるレジのところで「立ちきゅう」の人みたいにぐだぐだしゃべってから、仕事に出かけた。映画の「スモーク」みたいに。

世紀の大失恋(はは、)をしてちょっとおかしくなってたわたしはテンポラリーでイージーな恋をしては傷ついていて、けんやはいつもそんなわたしのださださな話を聞いてくれた。そして、いつも最後に「だめだめな女だな〜おまえは〜」と言うのだった。

けんやとはビーハイブやらフィラメンツやらポエムでぐじゃぐじゃ飲んだ。わたしはあんまり飲めない体質だけど、でも飲んでいた。待ち合わせなんてしたことはなかったけど、たいていどれかの店にけんやはいた。

その2
けんやはいつもわたしを「ハマダマリコ」ってフルネームで、そして多分、カタカナで呼んだ。「俺は『ハマダマリコ』のうた好きだなー。あの『のこされし者のうた』って最高だなぁ。泣けるよなぁ。『ハマダマリコ』ってイタコだよなぁ」とか、なんかのオンザロックを飲みながら言った。

「ハマダマリコって、ジャニス・ジョプリンみたいだなぁ」と、けんやはよくわたしに言った。
「あひゃひゃひゃひゃ、それって誉めてんの、けなしてんの?ひゃひゃひゃひゃ」とわたしは笑った。言いたい事はわかっていた。誉めてもけなしてもいないこともわかっていた。

けんやは、わたしには「だめだめだなぁ〜」とか言って笑うくせに、自分だってかなりだめだめな男だった。仕事はてんてんとして長続きしないし、昔付き合っていた女のパンツまで洗ってやってたんだぜぇ、とか自慢するようなおばかな野郎だった。

わたしたちは、カウンターで肩を並べては、ろれつの回らない舌で、本の話や音楽の話をした。村上春樹やケルアックやギンズバーグとか、ティム・オブライエンとかジャクソン・ブラウンとかの話をした。いつも同じの単なるBAR TALKだった。

けんやはいつも「作家になる」と言っていた。でも、書いたものを読んだことはない。それに、書いていた形跡もない気がする。いつか、一度だけ、これから書くつもりのストーリィのあらすじを話してくれたことがある。

女の双子が出てくる話で、それで、その子たちは、色盲なのだった。わたしが「女の子の色盲って、いないんじゃなかったっけ?染色体の関係で」って言うと、けんやは「まじかよーおまえ頭いいなぁ」と言った。わたしは調子にのって、「それに、双子って、あんた、まるで、村上春樹のマネじゃん」と言うとけんやはぶすっと黙ってしまった。そして少しの間、わたしたちは黙って飲んだ。

けんやは優しい男だった。かわいそうなやつを見ると放っておけないやつだった。付き合いもいいやつだったけど、なぜか、いっしょに飲んでいても帰る時は絶対にわたしより先だった。

そろそろお開きかなぁという雰囲気になりそうになると、すかさず、「じゃ、俺帰るから」と席を立つのだった。それがあんまり急なので、わたしは何度置いていかれたかわからない。付き合いのいいけんやらしくない行動だった。そのうち、置いてきぼりのさみしさを味わうたび「けんやはもしかしてこの気持ちが嫌なのかなぁ」と漠然と思った。

つづく。

寒くなりましたね。先日のリハーサルの音源が届きました。すごいなー、感激して涙が出てしまいました。大友さん、バンドのみなさんありがとうございます。ボーカルの市川氏もありがとう(わたしよりかわいく歌わないように)。では、わたしもうさぎとびをしたり、重いコンダラをひっぱったり、ろうそくの炎をゆらさないように歌ったり、いろいろ練習しなくちゃいけないので、今日はちょっと短めで失礼します。